<第5回>「 母のもっていく思い出 」
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母は二度いなくなった。
と思う。
一度目はわたしが小学校へあがる前。
二度目はあがってまだ低学年の頃。
と思う。
![赤い三輪車](http://nobikun.com/wp-content/uploads/2020/10/0076ac1ee3062ae55043f530e64e3cc8.png)
では、母の二十代と三十代に
それぞれ一度ずつか。
わたしの記憶にないだけで、
そう認識していないだけで、
実は三度目以降があったのかもしれない。
ほんの半日の、わずか数時間の小さなものも
たくさんあったのかもしれない。
一度目は家から母の姿が突然消えて、祖母が来た。
二度目は家から母の姿が突然消えて、誰も来なかった。
小学生の時は戸締まりをして登校できた。
どれほどの間、母はいなかったのだろう。
それは短くもあり長くもあり、確かな数字で憶えられていない。
![ハモニカを吹く少年](http://nobikun.com/wp-content/uploads/2020/10/5cd113d15f71776578f2aad71d75cd46.png)
悲しくなかったはずはなく、
さみしくなかったはずはない。
しかし、むしろその痛みよりも、
大きな不安を感じていた。
心細くて怖くて、
ぼんやりとどんよりと重い灰色の塊。
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やって来た祖母はごはんつぶの上に
かつおぶしを敷き詰めた
アルマイトの弁当箱を
持たせてくれた。
おかずの方は思い出せなくて、
ごめんなさい。
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母は大事な用事で出かけて、
しばらく留守にしている。
わたしはそのような説明を
受けていたと思う。
それで単純なさみしさで済んでいた。
その時は。
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小学校から帰って来ると、
お膳の上に書き置きがあった。
文面はたいそうではなく、
体に氣をつけるようにとあった。
夕方になっても、
夜になっても、
母は戻らなかった。
電灯を点けたが、
ただ点いていただけだった。
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一連の記憶の断片の最後は
玄関の小窓から覗いた母の笑顔。
ブザーを鳴らさずに、扉を叩く音。
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相手を小窓で確認してから
鍵を開けるように躾けられていた。
椅子を踏み台に代えた憶えは、
きっと一度目の時のもの。
母の作り付けた覗き窓用カーテンをめくる。
ガラス越しに飛び込むうれしさ。
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母がなぜいなくなり、
なぜ帰って来たのかを、わたしは
その時もその後も聞かなかった。
母も自ら口にしなかった。
人にはそういう部分もあると、
当時の母の年齢をまたいだ今は
なおさら思う。
責めるやなじる氣持ちなどは毛頭ない。
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あの時のうれしさは現在も
わたしのうれしさの中で一番にある。
わたしはいろいろな犠牲と
諦めを強いただろうし、
たくさんの夢や時間や可能性を
奪ったはずにちがいない。
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申し訳なく、ありがたい。